Diary200308

2003/8/6
7月に3本のライブが終わって、気ぜわしく思った割にお客の入りはどれもさっぱりで、そんなうちに外へ出掛ける事が多くなってやっとそれも一段落してここ2日ほどは夜になると片づけもせずに雑然とした部屋でふとんの上でゴロゴロ時間を過ごしている。あれやこれやと思うことはあるが身体もだるいし、暑いし、誰も彼も忙しそうだし、そうだ、結構忙しくていらいらしている時ほど何かが捗っているのかもしれない。今はじたばたしてもしょうがない、潔く棒に振って、身体も休めるかな。

2003/8/13
パスワードとは罪なものである。
職場でも、自宅でも 色々な場面でパスワードを要求されるのである。
自分で考えなければならない場合もあり、
お前サンのはこれだよと提供されるのもある。

先日などは、とても気を遣うシステムに
とても気を遣いすぎたパスワードを設定して
さらに気を遣った場所に保管したため
何がなにやら分からなくなってしまって
遂に1から作り直すハメにあったところである。

普通の人はいくつかを用意しておいて、それを使い分けている筈だが、
ワタシの場合は小心者が災いして、
思わず次から次へとパスワードを設定してしまっている。
何かのはずみに頭を強打して記憶が飛んでしまったとき、
いったいどうするのであろうか。

パスワードは思い出せなければ意味がないので、
例えば昔居たイヌの名前を順番に継ぎ合わせるとか、
車のナンバーやらなんやらかんやらだが、
ワタシの場合は
「これどーゆー意味なん?」
と自分にさえ問いかけたくなるものばかりである。

パスワードなんてキライだ。
ついでに鍵の場所もよく見失う。
田舎の家のように鍵もついていない家に暮らしていて大丈夫という
わけにはいかないのかなぁぁ

2003/8/14
なぜだか、「そばめし」について考えるのである。
以前日記に書いたかも知れないが それでも書くのである。

そばめしがなぜ最近になって脚光を浴びたか。
それは人類が開けては行けない扉を開けてしまったことを意味しているのである。
そばめしを注文する輩は 非常に大きなリスクを背負っているのである。
ご飯がカリカリとした状態でそばと共にソースに絶妙に絡み合っているのを想像しながら
テーブルに運ばれたのがびちゃびちゃの大盛りだった場合を考えてみなさい。

まさにそれは悲劇としか言いようがないのである。

休みの昼休み(外は豪雨だ)焼きそばを作りながら
「残りのご飯を入れようかなああぁ」と思いつつ、
そんなわけで 遂に踏み出せなかったのである。

意気地なし、と罵るが良い。
そばめしなんか 元来好きではないのである。
でも晩は お寿司にするかなん。

2003/8/16
 こだわりの家、拘りの銘酒、など こだわると言うことは 細部にまで自分の好みを主張することの意味として用いられています。さて、こだわるということの是非は如何なものでしょう? ヒトはさまざまな形をしていて、さまざまな考えを持っています。丸いヒトもいれば、四角いヒトもいる。当たり前のヒトもいれば、個性的!と言われるヒトもいます。だからこそ、誰かに会うときは 何があるか分からないし、つまらないこともあれば、楽しい思いをするときもあります。だからこそ、誰かに会ってみようという気にもなります。だって、全て同じ目ならば誰も賽子を振らないでしょう?

 こだわりがある人生は楽しいものです。気に入った骨董品に囲まれて暮らすのも楽しいだろうし、豊かな緑を大切なバイクで突っ切って走って行くのも大層気分が良いものでしょう。でも、拘らず、自分の価値観をゆるやかに持つことにより、拾いものをすることもあります。私は ゴルフにはさっぱり興味がありませんが、毎日鍛錬をかかさない熱心な人に会い、手のひらの「ゴルフだこ」がガチガチになっているのを見て大層驚きました。私はギターを弾いてはいますが、これほどには指が堅くはなりません。私はゴルフなどは無縁だからとそっぽを向いてしまえば、ほんのちょっとした縁からも遠ざかってしまうことでしょう。

 拘りも必要でしょう。何かの目印のようなものにより、充実を図るためです。でも、拘ってはいても、拘っていることにより囚われないこと、こちらも大切な事と思うのです。素直な気持ちを持って 自分の触れていない世界に自然に耳を傾けてみることの出来る人が 結果として豊かな暮らしを送られているように私は感じるのです。

2003/8/17
クレセンツの練習。新曲をやった。

ドラムの堂下氏が休んでいたので代わりに北野が叩き
仮ヴォーカルは自分がやってみたのである。

歌って長いのだが、未だに声の出し方が理解できていない。
姿勢に気遣いながら、一番マシな結果が得られるポイントを探してみる。
喉をリラックスできるように試みるが、色々考えるほどに堅くなる。
姿勢を考えると、連動してギターの弾き方にも見直しが必要だろうか。
同じフレーズを繰り返し歌ってみるが、頭の位置や表情筋の状態の違いで
出る声が違うように思うが、どうだろう?

ヌケない声、しかも声量がないので
バンドサウンドの中にいるとモニターから返る声が得られない。
そのクセスピーカーからはある程度アウトプットされるので、
後からライブの音源を聴いて愕然とする。
音もしっかり外している。
声も闇雲に出している訳なので直ぐ潰れる。
自分の出す声に自信がないので益々怪しくなる。

姿勢ももともと悪いので、正しい姿勢を心がけるとなにやら不自然になる。
全部悪循環である。

でも しばらくは自分の声を探してみるのである。
自分の声探しは続くのである。
積極的にコーラスもやるのである。
バンドのためなどと思わずに、何も考えず(でも考えて)
声とつきあう時間を大切にすべきとこの頃思うのである。