Diary200504

2005/4/2

会社の歓送迎会で致死量のアルコールを摂取して
最終電車に乗り込んだ。
これは迂闊だった。
あまり覚えていない。
もうそろそろ強か飲むようなことは控えたい。
一夜にして職を失った
代議士のセンセもいらっしゃるのだからね。

で、目が覚めると、
電車はホームに滑り込んでいた。
駅にはしっかりと「富田」の文字が刻まれていた。
げげ。
もう戻る電車がない。
富田の駅には客まちのタクシーもあるわけでない。
私はぶつぶつ言いながら歩きはじめた。

ただの酔っ払いである。
くろぐろとした空の下を、さみしい野の中を歩いてゆく。
そのうち道が分からなくなり、ぐるぐると回りはじめた。
1時間ほど経ってから、やっと171に出た。
少し高槻方向へと思って歩いたが、
あきらめてタクシーを拾うことにした。

タクシーの運転手さんは
「だいぶ酔うてはりますなぁ 
大阪へ向かって歩いてはりましたよ」
と言って私の住所をたずねると、
カーナビに住所入力をすませ走り出したのだった。
ほどなく眠りにおちて、
目が覚めると家の前だった。
7000円ほど払って降りた。
次の日も仕事で、
最低限の人並みの状態に戻ったのは昼過ぎだった。

あとから調べて分かったことだが、
JR摂津富田がすぐ近くにあって、
13分後に京都方向へ向かう電車があったのだ。

2005/4/3

土曜日の午後
ほがらかな人と
取っ手のないコーヒーカップでお茶を飲んだ。
緑に埋もれた
そうそう誰彼教えたくないすてきで静かな店なのだ

スポーツの話題に花が咲く
昔ゼンゼン泳げなかった
水泳を習いはじめた時
ぼくはただイルカと泳ぎたかった
そうだったのだと思い出した
「じゃあその夢は半分果たしたも同然ですね」
と言われて
はっとした。
季節はまちがいなく春の入り口だ
今年はもったいをつけている
それは僕にとってプラスなんだな

山科にカットに行くと
店はよく流行っていた
とても待たされてしまった
それでも
とかく忙しそうな
店いちばんの別嬪ちゃんが
ハサミをぱちぱちさせながら
僕の髪を切り揃えてくれるので
気にはならなかった
店の照明がふしぎな陰影を作り
私と対面にある鏡に映るその人は
間違いなく奇麗だった
さくさく働いている人はすてきだ
僕も頑張らねば。

小雨模様の京都は
それでもたくさんの人の行き来で
落ち着かない感じだった
高島屋の地下で売れ残りの半額奉仕の
花見弁当を買って帰ってきた
定価で売っている京都大丸の野村佃煮さんの
普通の弁当のほうが美味いと思った。

傘を忘れていった僕はやっぱり濡れて帰った
でもこんな土曜日は僕は好きなの�

2005/4/4

洛中洛外という言葉がありますが、
洛中で仕事をすることになって、
わが町を再認識したという思いがあります。

関西以外の人には馴染みがないかも知れませんが、
京都では夏の終わりに地蔵盆というイベントがあります。
地蔵菩薩の縁日にあたる8月の24日あたりに
それぞれの町内において地蔵菩薩のあるところを会場として
子供たちが金魚すくいをしたり、お菓子を貰ったりするわけです。
地蔵菩薩は子供たちの守り神なんです。
それぞれの家には、子供たちの名前を記したちょうちんがあります。
そのちょうちんをお地蔵さんの所に奉納するわけですね。
その頃がくると、当番の人がとりにきてくれるので、
子供たちはわくわくして待つのです。

私はどっちかというと洛外にあたるところが住まいでした。
京都では、昭和30年代に拡充された住宅地です。
その昔は、どっちかというと、亡くなった人を葬る場所だったという。
火葬場が江戸時代まではあって、疫病が流行った頃には
たくさんの樽が順番待ちで並んだそうです(いやや~)

洛中の地蔵盆では、いまでも数珠回しがあるんです。
お坊さんの念仏にあわせて大きな数珠を回すのです。
私も話に聞くだけで、実際現場を見たことがありません。

きっと、新しい人たちだけが寄り合って出来た場所には
こういった事は残念ながら継続しないのでしょう。
洛中では、現存するこういったイベントを、
ゆるやかに受け入れ、また朗らかに楽しみつつ次に伝えると言う
羨ましくも思える気分があるようです。

洛外の地蔵盆には辛うじて、地蔵菩薩に地域の子供たちが詣でることで
その加護を受けようという形が、洛外の地蔵盆にも残った
ということでしょう。
数珠回しのことは私も社会人になるまでは知りませんでした。

こんなふうに、洛中では、旧来行われてきた形が整然と残されております。
あの、祇園祭もその一つでしょう。
そのインサイドに居る人たちにはそのシステムが
とんでもない時間を掛けてアップデートを繰り返して来た
優秀なアプリケーションである事がよく見えてくるのです。

古きを学び新しいものを希求する姿勢、
これがわが町のポリシーかと思われます。
敷居が一見高く思われるのは仕方がないでしょう
ひどく昔の話から始めないといけないのですからね。
時間がかかります。

あと、もうひとつ思うことは、
やはり京都と学生文化、これは切っても切りはなせないものです。
音楽、芸術、カルチャー、
70年代から試みられたいろいろな仕組みが、
いま空気のように京都の空に落ち着いているのが私には見えます。
セーシュンというものがあるならば、
きっと京都は僕自身にきっとプラスに働いていたのでしょう。
いまは楽しい感覚しかありません。

如何でしょうか?
一度京都へお越しになりませんか?

2005/4/5

この年齢になって思うこと。
「おっさんになるのはいややなぁ」
阪急電車で「横にくるなよぉ」と思っていると
しっかりやって来ます。
たとえば、畳屋さんから
イ草のにおいをするのはトテモ良いことなのですが、
オッサンは、内蔵系のクサさですね

列にはどうどうと割り込む
無神経
行儀が悪い
酔っぱらっては周囲に迷惑かける
等々、
何かと不快な感じです。

本当にそやつらと同じ世代になりつつある
のがとてもイヤです。
なんとか、あのようにならぬようにしようと心から誓います。

女性も、同様に
「オバハンにはなりたくない」などと
思うのでしょうか。

2005/4/7

けふは
鉄腕アトム2さいの誕生日であったかと存じます。
原作の設定ではそのような事ですが
当代のロボットは「愛・地球博」で
客におべんちゃらを言うのが精いっぱいでございまして
テクノロジーの進化というものは
人類が想像したそれより存外じっくり行っている
かように思うのです。

あにめの事は
苦手なのでよう分かりませんが
20年ほど前にやってた
「超時空要塞マクロス」によると
2009年には人類初の統一政府が出来、
宇宙要塞が空を飛ぶなんちう事でございますから、
それに比べると
世界平和
ならびに
ニッポンのロケット開発などは
理想図に
ひどく遠い道、であることに違いないように思います。
僕らが少年時代読んだ宇宙旅行時代。
そうなるどころか、いまの後進国の貧しさはどうだ。
思いを巡らせます。

「侍ジャイアンツ」ってのがあって、
これもまたアニメーションならではの
おおらかさとめちゃくちゃさ加減で笑ってみれたのですが
よくよく考えてみると、
テレビ中継とかで、
巨人軍のピッチャーが、
投球のたびにいちいちハイジャンプしたり、
速い速度でクルクル回っている絵柄は
冷静に考えるとかなり間抜けでございますな。
ボークになるやろ、とのご指摘も。

関係ないけど
今日社員食堂のラーメン喰っているとなりの後輩に
「(オバQの)小池さんみたいにツルツルいかんかぁ」と
言っていたところなのでした。

嗚呼、吾も漫画世代の申し子なり。

2005/4/20

お気付きかと思いますが、日記がとまっております。
朝5時ごろに起きてパソコンに向かい、7時に家を出て、
8時前には会社につき一仕事、
そのまま朝礼を過ぎて、昼にはご飯をとってまた仕事、
そのまま残業、
その辺で飯くって、また仕事。
布団にごそごそと入ってまた朝。
日曜日も同様の状態です。
決して仕事を盛られているわけではないのですが、
たまたまこのような状況となってしまいました。

そうしながらも、だからなんやねん、
とか思いますがね。

2005/4/21
ブリィ~の鞄を買って少したつた。
あまり努力しないのだが、このごろテカリ具合倍増。
ええ鞄やね、とたくさんの人に言うてもらえる、
それってええおべべやねぇの冷やかしと同じやったりして。

もう時効だから書くが
前の仕事用の鞄がめっちゃ気に入っていて、
ボロボロになっていようがおかまいなし
仕事だろうが、なんだろうが
どこまでもどこまでもそれを持っていくので、
仕事とプライベートくらい分けろ、
とその時の相方にちういされた。
うるへーと思いながらも、
新しく作った鞄はちょっと大きくて、
結局公私の鞄は分けることになつたのです。

このブリ~もダレスなんだけどね、
留め金のところが、もう少し積極的にパチンといってくれると
もっといいんだけどなぁ。

2005/4/28

福知山線の事故についてあれこれ思うのであります。

私がオーバーオールなど着て
首からミノルタハイマチツクEなどをぶらさげて
電車乗りに興じている少年の頃。
福知山線や山陰線などはディーゼル機関車
ディーゼルカー王国でありました。
山陰線にはDD54という電気式のディーゼル機関車が走っておりまして、
こいつが良く故障する。
「機関車の故障で遅れております」
などということはザラでございました。
重い機関車が、重い客車を引き、
単線ゆえに長い時間を駅でまち、
それはのんびり、のんびり行くのでありました。

事故の現場が塚口から見て急に右に切れているのは、
実は福知山線はあれから二つに分かれて、
まっすぐ南へ走って東海道線を跨いでいた
あの大惨事の現場となったのは、
推測ですが、福知山線の古い分岐点ではなかったかと思うのです。
私もあの分岐点を通って、尼崎港へと続く支線を乗ったことがあるのです。
写真はこのHPにもあります。
デンスケで録音した生録音のテープも残っています。

オーバーランなどは、
昔なんぞはおおらかで、
列車よりホームが短い、ということもよくありましたのでね。
そんなんあっても分からなかったなぁ、きっと。
それを思えば、こんどの事は、時代は変わったのだなぁ、
と糞爺のような台詞を吐かなければなりません。



思うんですよね、
人はつらいもの、と。
あれほど早く動く鉄の箱に毎日体を任せている。
それだけで日常的なのに、危険なことだな、といつも思います。
平常に、平凡に毎日を送るだけなのに、
そのリスクからはどうしても免れることが出来ません。
このたび命を落とされた方も、私には自分自身の身代わりになられたような
気がして仕方がないのです。
善も、悪も、不運も、幸運も、勝ちも、負けも
紙の表と裏のように感じます。

いずれにしても、冷静に受け止める。
形はなくても、生きている私たちの日常が、供養そのものでなくては。
あの運転手のひとつの死も、背後にあった百余名のそれも、
私は同じ重さの気持ちで拾い集めてみようと思うわけです。